それから約1時間後——2人はこれから明日香が滞在するホテルの部屋の中にいた。「うわあ……すごく素敵な部屋ですね。姫宮さんがこのホテルを予約したんですよね」朱莉は部屋を見渡した。2LDKの広々とした客室は全室オーシャンビューになっている。食事は部屋で取ることも出来るし、レストランを利用することも可能だ。クリーニングは勿論、掃除まで全てホテルが世話をしてくれるので、家政婦の話は無しになったのだ。「ええ。そうね」しかし、明日香の顔はどこかうかない。「明日香さん……?」朱莉は怪訝そうに声をかけた。「い、いえ。何でも無いわ。朱莉さん、今日まで本当にありがとう。貴女にはお世話になったから私の方から臨時ボーナスとしてネットでお金を口座に振り込んでおいたから、後で確認して?」明日香の言葉に朱莉は驚いた。「何言ってるんですか明日香さん。私は別にお金の為にやって来た訳ではありませんよ? ただ、明日香さんの力に……」「ええ。貴女なら、そう言うと思っていたわ。だけどこれは私の気持ちだから。お金でしか朱莉さんにお礼する手段が無くて……だから何も言わずに受け取って頂戴」あまりにも明日香の真剣な様子に朱莉は押されてしまい……。「分かりました。それでは受け取らせていただきます」そう、返事をするのだった。「明日香さん。それでは、私はこの辺で失礼しますね。16時には翔さん達が那覇空港に到着すると思うので、迎えに行く用事もありますから」朱莉はショルダーバックを肩から下げると立ち上がった。それを聞いた明日香は眉をひそめた。「人のこと言えないけど……翔は貴女に迎えを頼んだの?」「はい。私の買った車も見たいと話していられたので」「そうなの? なら、いっそ翔に運転して貰うのもいいんじゃない? あんなに見事な女性用にカスタマイズされた車を翔が運転する姿は見ものだわ」明日香がクスクス笑う姿を見て朱莉は思った。(良かった。明日香さん、少し元気が出てきたみたい)「明日香さん。それではまた何かありましたらメッセージを送って下さい。それでは翔さんと姫宮さんをこちらにお連れするまでお待ちくださいね」「ありがとう、朱莉さん」 朱莉は客室を後にして腕時計を見た。時刻は13時。後3時間後には翔が姫宮を連れて沖縄へとやって来るのだ。(姫宮さん……)朱莉は姫宮の姿を思い浮かべた。
16時―― 朱莉は那覇空港で翔と姫宮が来るのを待っていた。やがて翔が秘書の姫宮を伴って、ついに朱莉の待つ到着ロビーへとやって来た。(とうとう姫宮さんに……!)朱莉の心臓は緊張と不安で耳障りな位に早鐘を打っている。翔は笑顔で朱莉の前にやって来た。「久しぶりだね、朱莉さん。元気そうで何よりだよ。明日香のことでは朱莉さんに色々世話になったようで本当に感謝しているんだ。与えられた務めをきっちり果たしてくれている朱莉さんに感謝の気持ちとして臨時ボーナスを口座に振り込ませて貰ったよ。後で確認しておいてくれ」その言葉に朱莉は少なからず傷付いた。(与えられた務め……臨時ボーナス……。別に私はそんなつもりで明日香さんのお世話をしていたつもりじゃなかったんだけど。ただ、明日香さんの力になってあげたかっただけなのに。でも翔先輩はそんな風には取ってくれなかったのかな……)しかし、そんな思いをおくびに出さず朱莉はお礼を述べた。「いつもお気遣いいただき、ありがとうございます」「いや。朱莉さんは契約書以上の務めを果たしてくれているんだから、報酬を与えるのは当然のことさ。それじゃ改めて紹介するよ。こちらが新しい秘書の姫宮静香さんだ」翔は自分の隣に立っている姫宮を紹介した。「初めまして、鳴海朱莉様。この度副社長の専属秘書となりました姫宮静香と申します。どうぞよろしくお願いいたします」「は、はい。鳴海朱莉と申します。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」朱莉は慌てて頭を下げて挨拶をし、改めて姫宮静香という女性を見つめた。ロングヘアは一つにまとめ、髪をアップにし、Vネックのフレンチスリーブの膝丈のワンピースにブルーのパンプスを履いた姿は正に仕事の良く出来る女性のように朱莉の目には映った。(この人が新しい翔さんの秘書……。私とは全然違うタイプの女性だわ……。少し明日香さんに雰囲気が似ている気がする……)朱莉は羨望の眼差しで姫宮を見つめた。2人の簡単な挨拶を見届けた翔が再び朱莉に声をかけてきた。「姫宮さんには今、明日香の出産先について、色々力になって貰っている。彼女は本当に仕事が良く出来て、信頼出来るパートナーなんだ。朱莉さんも何か困ったことがあれば彼女に相談するといい」「はい、分かりました。姫宮さん、これからどうぞよろしくお願いいたします」朱莉は丁寧に頭を下
翔と姫宮がロビーで打ち合わせをしながら朱莉の連絡を待っていると不意に翔のスマホが鳴った。「もしもし、朱莉さん? ……うん。……分かった。ありがとう、すぐにそっちへ向かおう」そして電話を切ると翔は姫宮に声をかけた。「姫宮さん。朱莉さんが車を回してくれたそうだから外に出よう」「はい、そうですね。翔さん」姫宮と翔は同時に立ち上がった。「それじゃ、行こう」歩きながら、姫宮は翔に尋ねた。「翔さん、朱莉さんのことをどのようにお考えですか?」「朱莉さん……? うん……そうだな……。彼女なら生まれて来る俺と明日香の子供を愛情をかけて育ててくれそうだと思っているよ」「そうですか。契約書では残りの婚姻期間は5年となっておりますが、延長の可能性はありそうですか?」「まさか! そんなことは絶対にありえない。婚姻期間が延びることは無いよ。早く自由の身にしてあげるのが朱莉さんの為なんだから」そんな翔の横顔を見つめながら姫宮は小さく呟いた。「……それが本当に朱莉さんの為になるのでしょうか……」「え? 何か言ったかい?」翔は姫宮を振り返る。「いいえ、何でもありません」姫宮は表情を崩さずに答えた—― **** 朱莉の運転する車の後部座席に座った翔が車内を見渡している。「朱莉さんの運転する車、外装も女性向きだけど、内装も女性向きだね。うん、色合いがすごく素敵だ」「はい、外装や内装が女性向きにカスタマイズされていて、すごく気にいったんです。ありがとうございます」朱莉は笑顔で答える。「何言ってるんだい、これも朱莉さんに対する必要な投資だよ。何せ子供を育てるにはやはり車は必要だからね。これからもよろしく頼むね」「はい、お任せください」投資……その言葉に朱莉の胸はチクリと痛んだ。朱莉は答えながらバックミラーでチラリと姫宮の様子を伺うと彼女は何か英文で書かれた書類に目を通している。(英語の文章……やっぱりすごく仕事が出来る女性なんだ)朱莉は羨望の眼差しで姫宮を見て……心の中で溜息をつくのだった―― **** 「こちらが明日香さんのいらっしゃる客室です」朱莉が案内すると姫宮が言った。「副社長、明日香さんとつと姫宮がロビーで打ち合わせをしながら朱莉の連絡を待っていると不意に翔のスマホが鳴った。「もしもし、朱莉さん? ……うん。……分かった。ありが
「明日香、会いたかった!」翔は明日香のいる客室に入り、駆け寄って力強く抱きしめてきた。「ちょ、ちょっと……翔!」明日香の窘めるような声に翔は慌てて明日香から離れた。「ああ……ごめん、明日香。そう言えばお腹の中に子供がいたのにすまなかった。大丈夫だったかい?」「ううん。それは大丈夫だけど……あら? ところで朱莉さんは?」「朱莉さんならマンションに帰ったけど?」それを聞いた明日香の目が険しくなった。「翔……まさか朱莉さんを追い返したの!?」「え? まさか! 彼女の方から遠慮してマンションへ帰ったんだよ。新しい秘書が俺と明日香で積る話があるだろうから、2人きりで話をしてもらおうと言ったからだ」「そうだったの……。朱莉さんならいて別にいても構わなかったのに」明日香は何処かイラついた様子で爪を噛んだ。「おい、明日香。お前本気で言ってるのか? とても以前のお前なら朱莉さんのことをそんな風には……」すると明日香がポツリと言った。「……初めてだったのよ。翔以外の人に……誰かに親切にして貰ったのは……」「明日香?」「朱莉さんだけだったのよ。こんな捻くれた私に赤の他人なのに親切にしてくれたのは。だからもう一度お礼を言いたかったのに。それに朱莉さんは今日は朝から私の退院の手続きに付き合ってくれて、ここまで連れて来てくれたのよ。疲れているはずなのに、貴方の出迎え迄させて車でここまで運転させるなんて」「あ、明日香……」翔は明日香の話を信じられない思いで聞いていた。あんなに他者を思いやる気持ちに欠けていた明日香が誰かに対してこんな風に思うようになるとは。「ねえ。知ってた? このホテルから朱莉さんのマンション。どの位離れているか、どの位時間がかかるのか……」「……」「朱莉さんの住んでいるのは那覇市、ここは名護市。車で1時間以上かかるのよ? 疲れているはずなのに……。私は悪いから遠慮したのよ。だけど朱莉さんが自分に退院の日のお迎えをさせてくれって言うから。そこにいくと翔、貴方は何? 自分から朱莉さんのお迎えを頼んだんでしょう?」何処か詰るように明日香は言う。「あ、ああ……そうだ……」翔が重たい口を開く。「翔、貴方は朱莉さんを自分の従業員のように扱っているけどもう少し朱莉さんに気を遣ってあげて。もっとも私もこんなこと言えた義理じゃないけどね。私は最
帰りの車中、朱莉は運転しながら姫宮のことを考えていた。「一体どういうことなんだろう? 姫宮さんは翔先輩の完全な味方だと思っていたけど、やけに否定的な言い方をしているように聞こえたのは、私の気のせい……?」思わず口に出して呟いてしまった。 **** その夜――朱莉がネイビーを膝に抱えながら、ネット配信映画を観ていた時、朱莉の個人用スマホが着信を知らせた。「ひょっとして翔先輩かな?」しかし、朱莉はその着信相手を見て凍り付いた。それは京極からの電話だったのである。実はあの日、安西の事務所で京極と姫宮が並んで歩いている画像を見せられたその夜、京極から電話がかかって来たのだ。しかし、京極と姫宮が一緒に写っているあの写真が気がかりで、京極から何か決定的な話を聞かされるのでは無いかと思うと、それが怖くて、咄嗟に電話口で伝えたのだ。今、通信教育のレポート提出に追われていて、忙しいのでしばらくは電話もメッセージも遠慮してもらいたいと……。それを告げた時の、電話越しから聞こえる悲し気な声が朱莉の心を揺さぶった。しかし……それでも朱莉は京極と話をするのが怖くて頑なに連絡を拒んだのである。それがよりにもよって、翔と姫宮が沖縄へやって来た日に電話がかかってくるなんて。あまりにも偶然が重なり過ぎて、再び朱莉は疑心暗鬼に陥ってしまった。(お願い……! 早く……電話が切れて……!)朱莉は耳を塞いだ。(ごめんなさい、京極さん。私……まだ貴方の電話に出る勇気が……!)暫く鳴り響いたスマホはやがて静かになった。「よ、良かった……」朱莉は安堵の溜息をついたが、時を置かずして再びスマホが鳴り響いた。(京極さん……)考えてみれば、京極は忙しい身だ。それなのにこうして朱莉に電話をかけてきている。(私の為に京極さんの貴重な時間を奪う訳にはいかない……)朱莉は観念して、電話をタップした。「はい、もしもし……」『朱莉さん!?』電話に出た途端、京極の切羽詰まった声が受話器越しから聞こえてきた。「はい、朱莉です。どうも……ご無沙汰しておりました」すると、京極の安堵したため息が聞こえてきた。『良かった……中々電話に出てくれなかったからてっきり何かあったのでは無いかと思って心配しました。でも何も無かったんですね? 安心しましたよ』その声は本当に朱莉の身を案じているよ
翌朝――「え? アメリカですか? アメリカで明日香さんは出産するんですか?」朱莉は電話で話をしている。その会話の相手は他でも無い、姫宮だった。『はい。アメリカには私の知り合いの産婦人科医がいます。また彼女は代理出産も手掛けています。私の方から彼女にはよく説明を行いました。このまま明日香さんには出産までアメリカに住んでいただくことになりました』「ええっ!? そ、それは本当ですか!?」あまりにもスケールの大きな話になり、朱莉は今更ながら怖くなってきた。「あ、あのそれって法律に触れるとか……?」『ご安心下さい。書類は違法にならないように完璧に仕上げてあります。ですが、もし万一のことがあったとしても絶対に朱莉さんにだけは被害が及ばないように念入りに手を打ってありますので何も心配することはございません』電話口の姫宮はきっぱり言った。「わ、私も……アメリカに行ったほうがいいんでしょうか……?」朱莉は声を震わせながら尋ねた。(順調にいけば、明日香さんが赤ちゃんを産むのは後4カ月後……それまで私は言葉が通じない国へ……?)『いいえ、朱莉さんはアメリカには行かなくて大丈夫です。というか……むしろ来ない方が良いかと。このまま沖縄に残って下さい。明日香さんがアメリカから戻って来る迄は』その話し方は有無を言わさぬものだった。「あ、あの……明日香さんはお1人でアメリカに行くのですか?」『行き帰りは私と副社長が付き添います。アメリカで明日香さんが住む家も借りましたし、現地スタッフと家政婦も雇ってありますので明日香さんを心配する必要は一切ございません』「そうですか……」(すごい……もうそこまで手を回していたなんて。翔先輩が優秀な人物と言っていただけのことはあるな……)『こちらでも色々と準備がありますので、沖縄を出発するのは3日後になります。それと、明日香さんの身の回りのお世話の必要はもうございませんので、朱莉さんはどうぞ今迄通りの生活をなさって下さい。定期報告はメールでいたします』「はい……分かりました……」どこまでも淡々と話す姫宮に朱莉はすっかり押されていた。『それでは失礼いたします』電話を切ろうとする姫宮に朱莉は慌てて声をかけた。「あ、あのっ!」『はい、何でしょうか?』「この話……アメリカに行く話、明日香さんは納得されているのでしょうか?
—―3日後、午前9時 朱莉は明日香と翔、そして姫宮の見送りに那覇空港に来ていた。「朱莉さん。今迄色々世話になったね。次に会うのは明日香が出産後だから数か月先になるけど、また日本に帰国したらその時はまたよろしく頼むよ」翔が笑みを浮かべて朱莉に言う。「はい、分かりました」「朱莉さん。色々ありがとう。貴女がいてくれて本当に助かったわ」明日香は、大分目立ってきたお腹をかかえるように立っていた。「明日香さん……道中、お気をつけて」朱莉は心配そうに声をかけると、代わりに姫宮が答えた。「大丈夫です。明日香さんの体調を考え、ファーストクラスのシートを取りました」「そうですか。なら安心ですね」「だったらいいけどね。途中で産気づかなきゃいいけど」明日香の言葉に翔はギョッとした顔をする。「あ、明日香! 縁起でもないことを言わないでくれ」「何よ、ほんの冗談に決まっているでしょう?」明日香はツンとした顔になる。「このまま直接アメリカへ行くのですか?」朱莉が誰ともなしに質問すると明日香が答えた。「まさか! このままなんか行かないわよ。一度六本木に戻って色々準備しなくちゃ。そう言えば翔、熱帯魚はどうなったのかしら?」「ああ、あれは億ションに寄付したんだ。あの建物内の何処かに置いてくれるように頼んだよ」「そうね……。仕方ないわね」その時、空港内にアナウンスが響き渡った。羽田空港行の便に関するアナウンスである。それを聞いた姫宮が言った。「それでは、副社長、明日香さん。そろそろ行きましょう」そして朱莉を向くと小声で囁いた。「朱莉さん。待っていて下さいね」「え?」朱莉は今の姫宮の話し方に反応した。『待っていて下さいね』(姫宮さん……まるでその口ぶりは……)「朱莉さん、どうかしたの?」突然明日香に声をかけられて朱莉はハッとなり、慌てて首を振った。「い、いえ。何でもありません」そしてそんな朱莉の姿を意味深な眼つきで見つめる姫宮。その目は何処かで見たことがあるような目にも見えてきた。(姫宮さん……?)「それじゃ、皆行こうか?」翔が明日香と姫宮に声をかける。「朱莉さん。元気でね。予定通りなら10月にまた会いましょう」明日香が朱莉に言う。「はい、お待ちしています」そして、3人は朱莉に見送られ、一路羽田空港へと向かった――朱莉は3人を
「いやあ~本当に偶然ですね」安西が朱莉の前でアイスコーヒーに手を伸ばした。「ええ……驚きました。まさか沖縄にいらしていたなんて」朱莉はアイスカフェオレを飲みながら、チラリと安西の隣に座る茶髪に染めた青年を見る。安西の隣に座る青年は安西航(わたる)。安西の息子で22歳、彼の事務所でスタッフとして働いているらしい。今回、翔と姫宮の関係を調べてくれたのも彼である。「え~と……航君? この度は色々知らベて頂いてありがとうございます」「ウッ! ゴホッ!」突然航は咳き込んだ。「あ、あの大丈夫ですか?」朱莉は驚いて声をかける。「何ですか……。いきなり君付けなんて」ジロリと航は朱莉を見た。「あ……ご、ごめんなさい。年下だったのでつい」「まあまあ、航。別にいいじゃないか。君付けで呼ばれたって。いやあ~しかし本当に沖縄は暑い所なんですね~」安西の言葉に朱莉は頷く。「そうですね。東京も暑いですが、沖縄は東京とはまた違った暑さですよね。湿度が高いせいでしょうか?」「成程……確かに外の気温を現す電光掲示板に湿度が表示されていたのですが、気温は東京の方が高いのに、沖縄の湿度が83%になっていたので驚きですよ!」安西は大袈裟な身振り手振りで説明する。「あの、それで今回は何故沖縄に? もしかして親子で旅行ですか?」朱莉が尋ねると、安西は頭を掻いた。「いや〜旅行だったら……良かったんですけどね……」「成人した男が父親と2人で旅行に行くはず無いでしょう?」ブスッとした様子で航が言う。「それじゃお仕事ですか。大変ですね。東京からわざわざ沖縄までなんて」「ええ、まあ……。っとすみません。これ以上のことは個人情報なのでお話し出来なくて。一応調査期間は3週間なんですよ。私は東京の事務所に戻らなければならないので、息子の航を派遣したんです。今日沖縄に着いたばかりなんですよ」「それは大変でしたね。それで安西さんはいつ東京に戻られるのですか?」朱莉は東京に戻る時は安西の見送りに来ようと考えていた。「それが、折角沖縄に来たのでゆっくり滞在したいのが本音ですが……明日には東京へ戻らないとならないんです」残念そうな顔で安西が言う。「そうなんですね。何時の便ですか? 是非お見送りさせて下さい」朱莉が言うと、安西は慌てた。「いえいえ、何を仰っているんですか? 見
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると